空間と時間,世界&宇宙観*知性、論理、思考、意味、イメージ、意識、心、本質、質、味わい、価値、生物、世界、宇宙、などの研究#107~110*イメージ思考でいこう*ともかく、 「宇宙は永遠の過去から永遠の未来までつづいていく。 あるいはそれに加えて、 しかも、永遠の未来は永遠の過去につながっている」 その可能性が高いと思われます。 ひとつ、ユニークだと思われるその根拠を示してみましょう。 この宇宙・世界では、すべての人(意識の主体)が平等であるべきだと思いますか、と世界中の人たちに問えば、ほとんどの人が「平等であるべきだと思う」と答えるだろう。 人類をつくった存在をこの宇宙・世界の創造原理と呼ぶと、その創造原理の意志・法則と呼ぶべきものが人々に正しくそう答えさせた、と考えるのは妥当でしょう。 そして、質の科学によれば、すべての人(意識の主体)が平等になるためには、時間は永遠でなくてはならない、しかも、なんらかの形で、宇宙は永遠につづいていかなくてはならない、となります。 それ以外にすべての人(意識の主体)が平等になる在り様はない。 この論理展開でいっても、宇宙は永遠につづいていくことになります。 つまり、仮に途絶えることはあっても、宇宙は永遠につづいていく、ということになります。 質の科学によれば、宇宙が永遠につづいていくのなら、すべての人(意識の主体)は時間をかけて完全に平等になっていく、となります。 現実を見ると、どう考えてもすべての人を同時に平等にすることはできません。 したがって、時間をかけて、すべての人が平等になっていくのです。 (質の科学は、その在り方を完全に示しています) 以上の表現では少しわかりにくいでしょうが、はっきりいうと、すべての人(意識の主体)は完全に平等だ、ということです。 (ここには、ふたつのポイントがあります。ひとつは、宇宙・世界の創造原理の意志・法則であり、もうひとつは質の科学です)(その法則⊃質の科学でしょう。質の科学によれば) 仮に宇宙が永遠につづいていかないのならば、宇宙が終わった時点で、すべての人の平等化という流れも終わることになります。 ほかにもいくつもの根拠がありますが、さらにもうひとつそれを挙げると、生物の発生と進化は、知性(知性体)の関与なしでのランダムに任された在り方では、たとえば数千兆年の数千兆倍といったようなとてつもない時間がかかると思われます。 たとえば、 人間がなにかをつくるにしても、人間の知性が設計図を考え書き、それに基づいてつくる。もちろん、そこには試行錯誤的もある。 設計図をつくらずにつくれるものもあるけれど、それは経験を積んだ人間の知性があるからであって、同じく知性が要る。 生物の発生と、その進化によって人間にまで至るのが、知性体なしのランダム・偶然によって行われるなら、無限に近いスケールの時間がかかるでしょう。 しかも、 人間は数学をはじめとして、さまざまな才能・能力をもっており、それを現在大きく開花させているし、発展した文明・文化をもつに至っている。 そこまでも考慮すると、どうしてもそういう結論になります。 つまり今回のこの宇宙においては、知知性が関与して生物の誕生と進化を進め、さらに人間の知性的な面までも発達させた、といことになるでしょう。 つまり、今回の大宇宙の前にも大宇宙があったのであり、知性体はそこからきている、それどころか、それ以前の無数の時刻を異にする大宇宙からきている、ということになるでしょう(ビッグバン宇宙論的にいえばそういう表現になる。定常宇宙論的だと、宇宙には始めはないとなって問題はない。それらを比較して、定常宇宙論的な宇宙論が正しいといえるのかもしれません)。 以上で、現在までに無限に近い時間以上の時間が経過してきたと、かなりの確率でいえることになるでしょう。 そして、 仮に宇宙に知性が存在していなかった時点があったとすると、そこからどうやって知性が発生したのか、という問題が発生します。 それについてのひとつの答えは、無限に近い時間の経過ののちに生まれた、でしょう。 もうひとつの答えは、初めから知性はあった、でしょう。 そのふたつには、モデルや証明・解釈など、さまざまな困難を伴っています。 もっともすっきりする答えは、どの時点をとっても知性は存在した、でしょう。 それは、永遠の未来は永遠の過去につながっている場合、納得のいく答えです。 なぜそういえるのか。 そこでまず、 永遠の未来は永遠の過去につながっている、ということがどういうことか説明しましょう。 すでに、宇宙は永遠に存在しつづける可能性が高い、と主張できることをみてきました。 そういった全宇宙において、その全宇宙のすべてについてその宇宙の可能なすべてのパターンを無限の時間をかけてとり尽くしたら、その直後から全宇宙はまた今までとまったく同じパターン変化をとり続けていくことになるでしょう。 つまり、その無限の時が過ぎたその時点で宇宙の時刻はゼロとなり、宇宙はまたまったく同じ歴史を無限の時間をかけて繰り返していく、しかもその繰り返しが無限回続いていく、ということです。 注)ここでの無限の時間というのは、有限っぽくなりますが、それでもだれにも計算できないとてつもない長さの時間ということになりそうです。 ただし、全宇宙の質量が無限大(それについては後述します)なら文字どおり無限の時間となります(全宇宙の質量が無限大でも、全宇宙の広さも無限大なら、その重力で宇宙がつぶれるということはないでしょう)。 (その注について;それは計算するのに無限大の時間がかかるとか?これはジョークですが、たとえば円周率なども無限に数字が続いていきますね。だれが・なにが、とんでもない速さでそれを計算しても無限の時間がかかります、紙に書きつけるのですら無限の時間と無限大の長さ質量の紙が要ります。いろんな世界があるもんです) 注)全宇宙というのは; 大宇宙はいくらでも多くある可能性があるので、それらすべてと、しかも現在の宇宙論ではそれらはいくらでも膨張できるつまりいくらでも広がれるとなっているので、それらの外にあるいくらでも広がれる空間のようなものをいっしょにしてそう呼んでます。ただし、既述したように、相対論的宇宙論では、大宇宙の外には出れない、となるでしょうが。 定常宇宙論では、全宇宙の広さは無限大となるはずです。 よって、それが正しいとすると、現在までにすでにその全宇宙の無限の時間をかけた一周期が無限回繰り返されてきており、これからもそれが無限回繰り返されていく、ということになります。 それはとてつもなく不思議な世界で恐いくらいだ、と感じられるでしょう。 宇宙は無限だけれど閉じている、という印象で、息苦しさが感じられるかもしれません。 そういった宇宙だと「永遠の未来は永遠の過去につながっている」といえるわけです。 それが正しいとすると「どの時点をとっても知性・知性体は存在する」といえることになるでしょう。 意識の主体についても同じく「どの時点をとっても意識の主体は存在する」となるはずです。 それだと、ほかの可能性におけるいくつもの場合分けとそこに存在するさまざまなごちゃごちゃしすぎた難しい問題が解決され、すっきりします。 さらに、すでに述べた「意識」と「万人平等」の原理が正しいとすると、その在り方しかない、ということにもなるはずです。 (ただし、だからといって、それが百パーセント正しいと主張しているわけではありません) その「永遠の未来は永遠の過去につながっている」宇宙は、次のようなことに対応しているのかもしれません。 始点を決めその始点(位置ゼロ、時刻ゼロ)から、質量mの物体が速度vで全宇宙を越えた全空間を走っていくとする。 注)何度も述べたように、相対論的宇宙ではこういうことはできないとなりますが、思考実験で行い、その物体を時空の影響を受けないものとすると、思考上はできないことではないでしょう。今の宇宙論もまだまだぐちゃぐちゃしたいいかげんなものですからね。 (ただし、私はこの方面のプロではありません。大学時代に一部学んだのと、興味があっていろいろ勉強・考え続けてきた中でそういう印象をもちました。 そして、数式を使った宇宙論だけでは、この不思議極まりない宇宙を描き出すことは不可能なのではないか、とも思います。 私のこのブログでは、数式を使わないやり方での宇宙論を展開してもいます) (前に書いた「ビッグバン宇宙論は間違いか?」というコラムは、かなり前に読んだ、政木和三という方の本、にそのヒントがありました。書き忘れていたと思うのでここに記しておきます)。 それが無限大の空間を無限の時間をかけて進んだ結果、始点に戻る。 これは先に述べた可能性の高い結論に対応しています。 さらにそれは、質の科学のいう、質時間回帰に対応した、物質世界の運動量時間回帰でもある。 質の科学では、意識の主体が壊れないために質時間回帰がある、となるのであるが、それを援用すれば、物質世界における宇宙空間が壊れないために、運動量時間回帰はある、となるが、それはどう解釈できるのだろうか。 宇宙空間が無限大に拡散することは宇宙空間が壊れることにあたる、というのはわかるような気がする、というか、かなり納得がいく。 そこで、宇宙空間が壊れないために、運動量時間回帰はある、という主張はかなり説得性があるといえるだろう。 つまり、宇宙の大きさは無限大ではあるが閉じているので拡散はしない、よって宇宙空間は壊れない、という解釈になる。 その運動量時間回帰によって、空間の位置だけでなく時間も元に戻る。 つまり、時刻も時刻ゼロに戻る。 それは永遠の未来は永遠の過去につながっている、ということに等しい。 それもまた、質時間回帰からの援用で空間と同じように、時間が永遠の過去から無限につづいてきて永遠の未来まで無限につづいていくと、時間が拡散して時間が壊れてしまうので、運動量時間回帰によって、永遠の未来が永遠の過去につながっていれば時間は拡散せず時間は壊れない、という解釈になる。 その運動量時間回帰における、空間の位置と時刻は一体となっていて分離できないようにみえる。 それは相対論のいう、 運動量時間回帰について説明しましょう。 惑星たとえば地球が一月一日から翌年の一月一日で、元の位置に戻る(誤差は考えないとする)と、それは運動量時間回帰になっている。太陽系が静止しているとみなした上で、元の位置に戻っている。 それは、地球の運動量mvを時間で積分したもので、位置ベクトル×地球の質量(重さの実体)という位置ベクトルになっている(一月一日の位置を始点とする)(物理ではつかわれていないが)。 元の位置に戻った時に、月日も元に戻っている(ズレは考えないとする)。 (月日については人間の決めた約束ごとであるが、季節についてはそうなっている。さらにもちろん年号は異なる)。 つまり、位置もゼロ、時刻もゼロ、に戻っている。 それが物質世界における運動量時間回帰の例である。 さてここで、先ほどの 「始点を決めその始点(位置ゼロ、時刻ゼロ)から、質量mの物体が速度vで全宇宙を越えた全空間を走っていくとする」 「それが無限大の空間を無限の時間をかけて進んだ結果、始点に戻る」 は、この宇宙に運動量時間回帰則(精神的・霊的世界の質時間回帰則に対応する)があると仮定しての結果である。 それは相対論的宇宙論において、ある方向にずっと進んでいくといつか反対側から出てくることになる、というのとは異なった論である。 注)mを質量(重さの実体)の基本単位にすると、mを1とおけるので、 ここでは、無限の時刻イコール始発のゼロ時刻となっており その間、質量mの物体の速度vはすべての可能な方向性をとってきており それと同じように、先ほどの 「始点を決めその始点(位置ゼロ、時刻ゼロ)から、質量mの物体が速度vで全宇宙を越えた全空間を走っていくとする」 「それが無限大の空間を無限の時間をかけて進んだ結果、始点に戻る」 は、この宇宙に運動量時間回帰則(精神的・霊的世界の質時間回帰則に対応する)があると仮定しての結果である。 それは相対論的宇宙論において、ある方向にずっと進んでいくといつか反対側から出てくることになる、というのとは異なった論である。 それをそれとは異なった表現をすると; 「始点を決めその始点(位置ゼロ、時刻ゼロ)から、質量mの物体が速度vで全宇宙を越えた全空間をプラス無限大の方に走っていくと、 それがマイナス無限大の方向から現れ始点に戻る」 となる。 それが正しいならつまり、プラス無限大はマイナス無限大につながっているわけです。 ここで、それを説明しましょう。 (ただし以下は数学的に厳密な表現ではありません。イメージ思考による表現です) ゼロには、マイナスゼロとただのゼロとプラスゼロがある(ただの=単なる)。 それはこういうことです。 横線をひいて、その右端に右への矢印をつけた数直線、それのまんなかあたりに点をうち、そこを、ただのゼロ(以下ゼロ)とする。 そのゼロの左側はマイナスの数値、右側はプラスの数値となる。 マイナスの方からゼロに近づいてきた数値は、無限にゼロに近づいたところでマイナスゼロとなり次いでゼロとなり次いでプラスゼロとなる(これは厳密な表現ではありません。イメージ思考による表現です)。 つまり、ゼロの左にマイナスゼロがくっついており、ゼロの右にプラスゼロがくっついている。 次はそれを元に、マイナス無限大とプラス無限大がつながっていることを示します。 つまり、プラスの方に無限大進むと、マイナス無限大からでてくる、ということを説明します。 プラス無限大というのは、数値的には、プラスの普通の数値をプラスゼロで割ると得られるようにみえます。 ただの無限大というのは、数値的には、プラスの普通の数値またはマイナスの普通の数値を、ただのゼロで割ると得られるようにみえます(つまり、ただのゼロで割るとプラスもマイナスもなくなるようにみえる)。 マイナス無限大というのは、数値的には、プラスの普通の数値をマイナスゼロで割ると得られるようにみえます。 タンジェントカーブを元に以上のことを (以上の部分は、数学的に厳密ではありません。イメージ思考による表現・理解です) 注)mを質量(重さの実体)の基本単位にすると、mを1とおけるので、 ここでは、無限の時刻イコール始発のゼロ時刻となっており その間、質量mの物体の速度vはすべての可能な方向性をとってきており (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) (時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません) |